碧志蒼浪伝

<第一章>

(こう)州首都・陽都(ようと)
その日、城内は妙な緊張感に包まれていた。

香州のすぐ北にある大国・()州の高官である泰寧(たいねい)が、香州の大将軍・呂炬(りょきょ)の下を訪れていた。
面会のために用意された部屋は、城内で最も美しいとされている碧玉(へきぎょく)池に張り出すように造られた一室だった。
部屋の半分は、水面の上に突き出た状態になっている。
碧玉池の周囲では、杜若(かきつばた)が紫色の花びらを重そうにもたげていた。
池は透明というよりは青白い水を湛えている。
月夜になると、青い光を放った水面が幻想的に浮かび上がり最も見頃なのだ、と呂炬は呟いた。

呂炬の話を頷いて聞きながら、泰寧は今は波紋もなく静かにたゆたっている池に目をやった。

「碧玉池も見事なものですが」

泰寧はおもむろに、呂炬の隣に控えめに座っていた少女に目を移した。

「呂大将軍のご息女はそれ以上にお美しい。今年でおいくつになられた?」

伏目がちにしていた少女はしばし沈黙していたが、泰寧の視線が自分に向けられ、
自分に対して問いを投げかけていたことに初めて気付いて、頬を赤くしながら躊躇いがちに口を開いた。

「15になりました」

小さく言って、すぐに口を閉じる。

ほんのり差した紅が、小振りだがふっくらとした唇を慎ましく彩っている。
華やかに纏め上げられた黒髪が、(つや)やかに光を放つので、泰寧はまぶしそうに彼女の姿を見つめていた。

「左様ですか。いやはや、とても15には見えない(あで)やかさですな」

「私にしてみれば、まだまだ子供ですが…こんな娘も嫁入りするときが来るとは、何とも感慨深い」

呂炬も泰寧も、目を細めて少女の姿を眺めた。
部屋の中に鎮座している両者の護衛も、侍従たちも、一斉に少女に注目する。
何人もの人間の視線を一身に集めて、少女はまた頬を染めてより一層顔を伏せてしまった。

「香州の華と謳われる呂大将軍のご息女を娶れるとは、琥煬(こよう)殿は何と幸運なお方でしょう」

慎ましやかな少女の仕草を微笑ましく眺めながら、泰寧は満面の笑みを浮かべた。

琥煬とは、媚州太守・琥鵬(こほう)の三男である。
琥四兄弟の中で最も武力に長けた、若き将軍だ。
今回、琥煬からの強い求めに応じて、呂炬は一人娘である呂夏を媚州へ嫁がせることを決意したのだった。

この戦乱の世、幾多(いくた)の州が大陸の覇権を争って迷走している中、
媚州は最も栄光に近い強国として君臨していた。
他の州は、小国同士手を取り合って媚州に対抗しようとするか、
媚州の傘下に入ってその甘い蜜を吸いつつ、いつか寝首を掻こうと手薬煉(てぐすね)を引いて待っているか、
覇権争いからは離脱して細々と自国を治めているか、いずれかに分類された。

まだ若い香州はその処遇を決めかねていたが、琥煬からの求婚を機に、
ひとまずは媚州と和議を結ぶ方針を取ることとなった。
この、まだあどけなささえ残る15の少女の肩に、香州の命運はかかっているのである。

重要な局面を知ってか知らずか、落ち着かなげに呂夏はちらと泰寧にその大きな瞳を向けた。
小柄だががっしりとした胸板を自信たっぷりに前に突き出した泰寧と目が合うと、すぐにぱっと視線を落とす。
泰寧は声もなく笑った。

何と微笑ましい。

慎ましさの中に、凛とした強さもあり、また時折惚けたようにうっとりとした表情をするときは、(なまめ)かしさも感じる。
このような美しい少女、いや女には滅多に出会えるものではない。

主の婚約者に向かって、あらぬ想像をしそうになった泰寧は、呂炬の声で我に返った。

「華などとは程遠い、とんだじゃじゃ馬ですぞ、この呂夏(りょか)は」

呂炬はからっと笑った。

まだ小国である香州が最近躍進的に覇権争いの核に食い込んでくることになったのは、
太守である朱恭(しゅきょう)の手腕と人望の厚さもさることながら、この呂炬の将軍としての働きが物を言っている。
数多(あまた)いる武人の中でも、5本の指に入ると言われる名将振りは、
恐れを知らない猛者たちにさえ「呂炬だけは敵に回したくない」と言わしめるほどだ。

だが、呂炬には跡取りがいない。
一夫多妻が当たり前の中、妻は一人と決め、それ以外に妾すら取らなかった。
唯一の妻は早くに亡くなり、二人の間には女児の呂夏しか残らなかった。
それゆえ、呂炬は一人娘を息子同然に扱い、自分の奥義のすべてを教え込んだ、という噂が他州にまで広まっている。
華のように美しい娘は、大男のような怪力を持ち、槍を持たせれば向かうところ敵なしと、
ある種伝説のような噂が流れているのだ。

まさか。

噂話を思い出して、泰寧はひとり首を振った。
この可憐そのものの少女が、猛者のごとく男たちを薙ぎ倒し、槍を振るう?
そんなことがあるはずはない。

実際に少女のこの姿を見れば、あれはすべて根も葉もないただの噂話だと、誰もがそう思うだろう。

「琥煬殿は媚州一の暴れ馬も乗りこなす、騎乗の豪傑の渾名(あだな)を持つお方。
 このような美しいじゃじゃ馬でしたら、喜んで乗りこなしましょう」

泰寧はすっかり噂話のことは忘れ、呂炬の言葉を笑い飛ばした。

「さすがは媚州太守がご子息。頼もしいかぎりですな」

呂炬もつられて豪快に笑い声を上げた。
そんな呂炬を、娘の呂夏は横目で黙って見つめていた。
厚い(ころも)の下に隠したものをぎゅっと握りながら。



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