暁姫

<序>

時は、人間と魑魅魍魎(ちみもうりょう)が共存する世。
彼らの間には(いにしえ)の時代から取り交わされた契約があった。

五年に一度、人間の中から一人、妖魔の長・夜叉(やしゃ)へ花嫁を差し出す。
さすれば、妖魔たちは人間には危害を加えない、と。

これは夜叉からの一方的な要求で、妖魔側に有利な契約だ。
しかし、妖魔たちの脅威から人間が身を守るためには、この契約を受け入れるほか道はなかった。
花嫁のその後の運命がどうなるのかは、ようとして知れない。

だが、花嫁が夜叉の元へ嫁いでから八日目以降、誰一人としてその姿を見た者は
いないという事実を聞けば、彼女たちの運命がどうなるかなど、想像に難くないであろう。

ここにまた一人、夜叉へ身を捧げようとする娘がいた。

名は(かすみ)
歳はまだ十八。
美濃の片田舎の小さな邑に住む、聡明で美しい娘だった。

夜叉から邑の長老たちに、霞を花嫁として差し出すよう、「婚姻の申し込み」という名の
命が下ったのは一月前。
霞が美濃一の剣豪、鴉紋(あもん)の妻となった、十日後のことだった。

霞は自らの運命を悟り、この国の平和を守るため、夜叉からの申し出を素直に受け入れたが、
鴉紋は頑として譲らなかった。
長老たちも、美濃の守護も、果ては幕府の高官まで鴉紋の説得に当たったが、
彼は決して首を縦には振らなかった。

鴉紋の心を動かしたのは、彼の妻・霞、その人だった。

二人がその夜、何を語り合ったのかは分からない。
翌朝、泣き腫らした目をした二人は長老たちの下へ行き、夜叉との婚姻を受け入れると返答した。
その日のうちに霞は夜叉の下へと、嫁いで行った。
何千もの魑魅魍魎に引き連れられて…。



それから七日後、鴉紋は一人、山野を駆けていた。

邑を出てから一度も休まず走り続けて、もう四日になる。
意識朦朧としながらも、目の前には霞の幻だけが見えていた。

一度は霞を差し出すことを承諾した鴉紋だったが、霞が妖魔たちと共に宵闇の中に消えた次の瞬間、
やはりどうしても霞への想いを断ち切れず、彼女の後を追おうとした。

それを邑の男たち総出で阻止され、鴉紋は邑の罪人が収容される地下牢に軟禁されてしまった。
そこから脱出するのに三日も掛かったのは、かなりの時間の損失になってしまった。

今はただひたすら、霞をこの手に取り戻す、その想いだけが鴉紋を走らせていた。

夜叉の城までもう幾ばくもない。
どうやって何千何万もの妖魔を相手に戦えばいいのか分からない。
無事助け出せたとしても、人間と妖魔との間の契約を反故にした代償が、
この国にどのような混乱を招くのかも分からない。

だが、そんなことはどうだっていい。

霞さえ無事に取り戻せれば、自分の身も、人間の命運も、この国の行く末も、
どうなっても構わない。
霞という、ただ慎ましく生きてきた、ちっぽけな娘の肩に、すべてを背負わせて、
素知らぬ顔を通している者たちの運命など知ったことか。

今まで霞と同じように、犠牲になった何人もの娘たちの存在に、
無関心でいられた自分に嫌悪を感じずにはいられない。
これは自分に対する怒りでもあるのだ。
だから今度こそは、見て見ぬ振りなどしない。
必ず救い出してみせる。

何より、霞は、自分が生涯守り抜くと誓った、鴉紋にとって唯一無二の存在なのだから。

愛おしい妻なのだから。


鴉紋は益々速度を上げて、足場の悪い獣道をひた走った。

その目に、夜叉の城の灯りがちらつき始めていた。



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